2021年8月7日(土)西成市民館3Fにチャーチ・オン・ザ・ロック の大東利章牧師がおいで下さり、礼拝とイエスの弟子となって働くための弟子訓練のお話して下さいました。繊細かつパワフルな先生のお話しは聴く者を奮い立たせ弟子となる決心を心の内で固めたと宣言したいのです。本当に「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)のです。
西成区あいりん地区の周辺には多くのキリスト教会があります。信じる人も信じない人も教会の門をくぐるのです。なぜ? それは食事が目当てだったり衣服や靴が目当てだったりする方も少なくありません。でもそれがきっかけになるのです。主は耳のある者を捨て置かれません。教会で語られる御言葉は命でありますから力があるのです。御言葉はキリスト・イエスご自身なのです。イエスは言われました。私が命のパンである。この言葉のパンを耳にした人たちが、言い換えれば種を蒔かれた人たちが沢山いる土地なのです。主の集めた人たちが多くいる土地なのです。ハレルヤ! 荒野に道を、荒野に川を造られる神なのです。
イエスは来て、彼らに語って言われた、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」マタイ28:18-20
そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます。ローマ8:11
主は言われた、「あなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根こそぎにされて、海に植えられよ』と言っても、それはあなたがたに従うであろう。ルカ17:6
”あなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があるなら”
と、主は言われました。
私たちは、木が海に植えられるなどとても無理だと考えて、ならば自分には、たったからし種ほどの小さな信仰さえ無いのだと失望してしまいます。そして主に、どうすれば信仰は深まりますか?と聞いてしまいます。この時の使徒たちも同じだったのです。
使徒たちは主に言った、「わたしたちの信仰を増し加えてください」。ルカ17:5
この答えが、
先のルカ17:6 主は言われた、「あなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根こそぎにされて、海に植えられよ』と言っても、それはあなたがたに従うであろう。
なのです。
いったいどういうことでしょうか?
実は、私たちクリスチャンには、からし種の信仰は既に備わっているのです。だからこの信仰を使うか使わないかだけなのです。信じられませんか? なぜなら聖書にこう書いてあるからです。
ローマ12:3 …神がそれぞれに割り当てられた信仰の度量にしたがって...……信仰はそれぞれの人に応じて割り当てられていると書いています。
ヘブル12:2 わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい………信仰はイエスが創られイエスが完成されたと書かれています。だから私たちは頑張って信仰を増やすとか深くするとか手を加える必要は無いのです。
ローマ3:25 神はこのキリスト・イエスを立てて、なだめの場所とされました.それは彼の血により、信仰を通してであって、彼の義を明らかに示すためです.………神の義とはイエスの持っている信仰なのです。
ローマ3:24 価なしに,彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです.……だからイエスは神から義とされたのです。
ローマ3:26 それは現在の時に彼の義を明らかに示すためです.こうして神が義であり、また彼はイエスの信仰の者を義とされるのです。……さらに凄いのはココです。”彼はイエスの信仰の者を義とされる” 私たちクリスチャンは義とされています。ゆえに、イエスの信仰を恵みによって頂いているのです!!
そして、
エペソ2:6 キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました.……私たちはイエスと共に天上で座っているのです!
アーメン。ハレルヤ!
だから、私たちは既にからし種の信仰を持っており、それを使うか使わないかにかかっているのです。だからイエスはあなたがたのからし種の信仰を使いなさい、と言っているのです。そして使えば使うほどに神は信仰を育てまし加えてくださるのです!
行動は怖くないのです。なぜなら自分がするのではないからです。神が行ってくださるのです。自分の力ではありません。あなたは神の力を信じますか? イエスをあの十字架の死から蘇らせた力ある神を信じますか? それが信仰です。 神の存在を信じるなら不可能も可能となるのです。
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。第二テモテ1:7
おくびょうの霊を捨て去りなさい!
わたしは福音を恥としません.福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者を救いに至らせる神の力です。ローマ1:16………パウロは自らの信ずるところを少しも恥としない、と言いました。私たちが伝道する時、世の常識で考える人たちから疎まれ、そんなものはないとさげすまれます。そんな時、つい恥ずかしいと思うのが人間です。しかし、そうでは無い。福音を伝えることは恥ずかしいことではないとパウロは私たちを励まします。おくびょうになってはいけません。なにが本当なのかを忘れてはいけません。神は力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです。
「だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」
マタイ28:19-20
イエスの命令は、「行け!」 なのです。それを守る者がイエスの弟子なのです。